ショパンの次の世代のポーランド人作曲家を弾く 楠原祥子
2015年4月29日楠原祥子ピアノリサイタルwith her Friends ~ショパンの次の世代を弾く
プログラムノートより
ポーランド人の民族にたいしての想い、自意識の濃さは、日本人であることをさして意識することなく生きてきた私の感覚とは根本的に異なると感じていました。
ヤン・イグナツィ・パデレフスキ Ignacy Jan Paderewski 1860-1941年
ピアニスト・政治家・教育者、いずれの存在としても著名なパデレフスキは、ポーランド第2共和国首相も務めています。
ピアニストとしては、輝かしい演奏スタイルがパリ、ロンドン、ニューヨークなどで大変な熱狂を巻き起こしました。その高度なテクニックは、忍耐を伴う練習の積み重ねであることをこの言葉で残しており、多くの人に記憶されています。
「1日弾かなければ自分にわかる。2日なら批評家にわかり、3日なら聴衆にわかってしまう。」
またパデレフスキ校訂版のショパン全集は、現在もショパンの楽譜の定番としての地位を譲ることなく守っています。事実上はパデレフスキの名前を冠してありますが、事実上の校訂者はポーランドの著名な二人の音楽学者、ブロナルスキLudwik BronarskiとトゥルチンスキJozef Turczynskiです。
メヌエット作品14-1、ノクターン作品16-4、幻想的クラコヴィアク作品14-6ともに、19世紀芸術家の気質が大いに見える作品。音階やアルペッジオが華やかに駆け抜け、調性の不安定感がむしろ洒脱さ感じさせます。ノクターンは絶妙でドラマティックな転調をもちながらも常時おだやかな楽想です。
パデレフスキ演奏によるメヌエット
カロル・マチエイ・シマノフスキ Karol Maciej Szymanowski 1882-1937年
ポーランド士族に生まれたシマノフスキは、激動の時代に翻弄され、作風を変えながら、オペラからピアノ小品まで多彩なジャンルの作品を書いています。4つのポーランド舞曲は第3創作期といわれる、ポーランド山岳地帯の民俗音楽に心酔していく時期の舞曲集です。
第1曲マズーレク、第3曲オベレクは3拍子のマズルカリズム。第2曲のクラコヴィアクは、クラコフ地方の踊りで、2拍子でシンコペーションと馬のギャロップリズムが特徴です。
ユリウシュ・ザレンプスキ Juliusz Zarębski 1854-1885年
ショパンの死から5年後に生まれたザレンプスキは、16才からほぼ全生涯にわたって国外で音楽活動を展開し、31才の若さで肺を病んで夭逝。20歳の時にローマに渡りフランツ・リストに師事。リストは彼の才能を見抜き、バイロイトワーグナー音楽祭など数多くのコンサートで共演し、ザレンプスキもまた生涯リストに深い尊敬の念を抱き続けました。
ロシアの作曲家ボロディンは、1877年にリストを訪ねた時にザレンプスキとも会い、手紙に書き残しています。「ザレンプスキのファッションの奇抜さたるや驚きだった。つば広帽子をかぶってはいるが長髪は広がり放題、珍奇としか言いようがない。しかしピアニスト・作曲家としてマジカルな才能に恵まれ前途洋々だ。」
鍵盤を自在に駆けめぐるヴィルトゥオーゾ性は、リストに負うところといえます。また次の世紀を先取りしている音楽の色彩感の中に、鋭く光彩を放つ楽想が現れ、それこそはリストが評価するところの『天才だけが持つ閃き』でしょう。様々な情感の広がりと、根底に流れる“悲しみ”の音調はショパンと共通するところです。著名な音楽学者トゥルチンスキの評を挙げます。
「いくつかの曲においては、この“悲しみ”がクライマックスをむかえる。例えば、心の集中に満ちたピアノ五重奏の第2楽章アダージョを見よ。それは永遠のノスタルジーの詩、独立した詩。この“悲しみ”は時として絶望の色を帯びる。その点で言えば“バラと棘”という連作の第3曲が特徴的である。」
バラと棘 作品13は29才の作。散文詩的に描かれた5曲からなる即興的な小品集。ピアノ五重奏作品34はザレンプスキの最後の作品であり最高傑作とされます。1885年、死の年の初頭に作曲。1879年からピアノ科教授を務めていたブリュッセル音楽院で初演されています。
演奏曲目
パデレフスキ : メヌエット作品14-1、 幻想的クラコヴィアク作品14-6、 ノクターン作品16-4
シマノフスキ : 4つのポーランド舞曲より 1番マズレク、2番クラコヴィアク
ザレンプスキ : ばらと棘 ピアノのための5つの即興曲 作品13
ザレンプスキ : ピアノ五重奏ト短調 作品34 with クァルテット・エクセルシオ
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