有賀和子先生のご逝去
世界的に活躍するような優秀な生徒も育て、ピアノ界の一つのピラミッドの頂点をなす先生でもありました。
私はもともと有賀先生の妹の高柳朗子先生に師事していました。私の叔母が双葉時代の同窓生で親しくしていたという縁があり、小学校1年の時から、千葉から蒲田のさらに先の久が原まで毎週通ってレッスンを受けました。
ずいぶん遠くまで。。。とびっくりされることが多いのですのが、当時通うことが苦痛だったことは一度もなく、電車に乗れるっ!東京に行けるっ!と無邪気に喜んで出かけ、実際私にとってレッスンは二の次でした。
蒲田の駅ビルにモロゾフのお店があって、なんてステキ!とうっとり見とれていました。小学生の私が。。。です。
その後、小学校高学年からは、高柳先生のご主人様がニューヨーク勤務を命じられて赴任されたため、小学校高学年から有賀先生に師事しました。
高柳先生が帰国されてからはまだ戻り、そのまま桐朋の高校卒業までは高柳クラスでした。
そして大学からは、あまりに長いこと有賀&高柳ご姉妹先生にお世話になったから、祥子ちゃんはここいらで他の先生のお世話になった方がいい。。。という高柳先生のご判断で、林秀光先生に変わることになりました。
どうして高柳先生が、渡す先を林秀光先生にされたのかは、今だにお聞きしたことがないので、今度お聞きしておこうと思います。
林秀光先生はピアノ科主任でいらしたし、なかなか厳しくて有名だったし、門下には優秀な生徒も多かったから、少しそういうところへ行って厳しさを思い知るがよいぞっ、と思われたのかもしれません。
有賀先生に話を戻しましょう。
私が有賀先生に積極的に指導をお願いするのようになったのは、演奏活動をするようになってからです。
先生は最初、「林さんや妹にも悪いから。。」と消極的でしたが、リサイタル前などにレッスンをして頂くようになってからは、とても熱心に見て下さいました。私の熱意が通じたのでしょう。時にはレッスンが4時間にも及ぶこともあり、世田谷の有賀邸を辞する頃にはへとへとでした。
そうした時を経て、私にとっては有賀先生も高柳先生も母のような存在になっていき、どうかすると、佐原の母よりも会う回数が多いくらいでした。
特に有賀先生とは、外来のピアニストのリサイタルはしょっちゅうご一緒し、美味しいお店があると聞けばご一緒し、ヨーロッパでの小旅行も、ポーランドはもちろんのこと、ベルリン周辺、チェコのプラハ、スペインのマジョルカ島もご一緒にまわりました。
なので、有賀先生との思い出は尽きることがありません。
いつも言いたいことをビシバシおっしゃる。
威張る。怒る
レッスンは4時間にも及ぶ。
表参道の交差点で転倒して前歯2本折る。
ガスコンロの火がスカートに燃え移って大火傷入院。
お風呂で転倒して顔が真っ黒になってもチェコに旅行して税関で怪しまれる。
かなりお年を召してからもBMWを運転されて、あんまりあちこちぶつけるのでご子息に運転を禁じらる。
などなど・・・
武勇伝の数々を残されて、ついに有賀先生は逝ってしまわれました。
。
最後にしゃぶしゃぶご一緒した時も何だか威張っていらしたのでした。それでも先生について行きたいと!ずっとお慕いしていました。
涙です。。。
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