2020年を振り返る
あっという間に1月も下旬になりました。ようやく大学も今年度の終わりが見えて、なにもかも初めてのことが多かった年で、大変であった面もあり、やりがいが大きかった面もありました。
2020年を振り返ってみると、コロナに関係あるなしに関わらず、これまでになく私の身の回りに『お別れ』する方が多かった1年でした。
まずは恩師のお一人、有賀和子先生とのお別れ。
結局先生とはご一緒に4人で木曽路でしゃぶしゃぶを食べたのが最後になりました。私にとっては母のような存在だったので、何度も何度も深い悲しみが海の潮の満ち干のように寄せては引き、寄せては引きの日々でした。
ご立派な先生でいらしたし、桐朋を背負って立つ先生のお一人でした。輩下には名だたるピアニストがそろっていて、別の門下のピアニストの話になると、「あぁ、あれは大したことないない。」と仰るのでした。
コンサート前のレッスンはかなり長時間に及び、4時間くらい弾きっぱなしで、体が壊れかけたこともありました。
1曲先生の横で弾いていると、どうも視野にかすかに入る先生の頭がだんだん前に垂れてきて、「もしかして寝てらっしゃるかな。。」と思ったことも晩年にありましたが、真偽のほどは定かではありません。
ズバッとものを仰る。有賀先生だからそれが許されたでしょうし、誰でもがその言葉に身をつまされる思いでした。
ポーランドからご一緒にベルリンやポツダム、ドレスデンを旅したこともありました。どこに行ってもおそろしく威張っている先生。
東京グルメもあっちこっちご一緒しましたっけ。コンサートにも。冬の寒い箱根にも。
ピアノをご指導頂けたことも嬉しかったけれども、結局私は先生のことを尊敬し、先生のことが大好きだったのだと、今振り返りつくづく思います。
コロナ禍の中でしたが、葬儀場でお別れをさせて頂くことができました。信じられないくらいメイクをされた先生はおきれいでした。
続いてピアノ指導者のお二人、多喜靖美先生と黒川ちとし先生のご逝去は衝撃的で、いまだにお二人の声音や仕草に思いを馳せることがあります。多喜先生の笑顔、黒川ちとし先生の人なつっこさや独特のお世辞。このお世辞がまたいつも笑いを誘ったのでした。
多喜先生は桐朋の先輩で、室内楽を指導に取り入れることについて多くのアドバイスを頂きました。また昭和音大プレビューアカデミーの講師も数回ご一緒に務めたことがありました。
私が代表を務める表参道パウゼステーションステップに、青柳いづみこさんと共にアドバイザーをして頂いたのが2年半前のことです。そのステップを前にして突然コールを頂き、癌になったことを告げられました。
闘病2年、毎日のように病状と治療について事細かにFBに掲載されていたので、それを読んで驚いたり励ましたり。。。その間にも幼少のうちから室内楽を!という多喜先生の信念のもとに、私の生徒さんたちにも室内楽をする場を発表会でつくり、それに関してはアドバイスも頂きました。
亡くなる少し前に急に静かになって(FBの投稿がなくなってという意味)胸騒ぎを覚え、それがやはり予感どおりとなってご逝去の報を聞きました。
黒川ちとし先生のご逝去は、もっと衝撃的でした。ある日突然にして金子勝子先生がFBに掲載されたのが第1報でした。思わず声をあげたほどで、何回も何回もその掲載を読んでは、間違いではない、受けとめなければならない現実なのだと。。。。聞けば、セミナーの収録中に倒れて、救急車で運ばれ2週間は闘病されたとのこと、くも膜下出血でした。
昨年3月31日、ちとし先生主催のステップで、ご一緒に『ショパンの手紙を読みながら』と題したトークコンサートをするはずでした。ちとし先生がショパンの手紙のナレーション、私が演奏をする予定で、シナリオを一生懸命作りました。でもコロナ禍のため、そのステップは中止になってしまったのでした。いずれどこかでやりましょう、と言っていたのに、もう今となっては永遠に叶うことなく散ってしまいました。まだ58才でいらしたのに。
そしてもう一人。佐原の母の友人で母といつも一緒に私のコンサートに来てくれていた陽さん。なにかと母を助け、美味しいもの情報などを聞きつけては千葉や東京に買いにでかけ、母にも買ってきてくれていたおかげさまで、母はけっこうグルメな生活を送っていました。
私も陽さんからグルメ情報を聞くのは楽しみでした。最後に母に買ってきてくれたのは、最近評判の『にしかわ』の食パンだったそうです。そしてそのすぐ後にお家で倒れて、一人暮らしだったので5日間ほども誰にも気が付かれずそのままだったとのこと、胸が痛くなる思いです。
この話には小さい付録がついており、母は陽さんは68才だと聞いていて、私にもそう話していました。小柄で可愛らしい雰囲気だったので何の不思議にも思いませんでしたが、亡くなられてみたら83才だったというのです。はて。。これはどうやっても謎ですが、どういうことだったかのか、とにかくそんなお年には見えませんでした。
これだけの永遠のお別れがありました。
しかしこれで終わりではありません。ここから先はコロナが関係してきます。
もう20年来ステージドレスを買っていた麹町のステージドレス専門店『May meメイミー』さんが閉店を決めたのです。
オーナーの湊めいみさんとは長い付き合いになるので、よもやま話もすることもありました。数年前にご主人が亡くなり、それでもめいみさんは一人で年に数回アメリカにドレスの買付にでかけていました。
しかしコロナ禍でステージが激減したアーチストはドレスを買うことがなくなり、海外渡航の制限で買付にも行けなくなり、ついに閉店を決意せざるを得なくなったという経緯です。
私のステージドレスはすべてこちらの『メイミー』でそろえていましたので、これからどうしたらよいものか。きっと。。。多くのアーチストが同じことを思っているでしょう。黒崎姉妹も同じことを言っていました。お母様と姉妹と3人でこれまでお世話になったからとご挨拶にまで行ったそうです。
閉店の知らせが来て私もすぐに飛んで行ったところ、となりで試着していた声楽家のおばさまは、「この方、いったい何着買うんだろう。。。」と思うほどの勢いで試着されていました。
私も1着買ってお直しをお願いしたところ、なんと。。。
「楠原さん、出来上がりは3月ですけどいいですか?」と仰る。
「へっ?3月〜?どうしてですか?」これまではいつだって1週間で上がっていたのに。
「まぁ嬉しい悲鳴というか、皮肉なことに、閉店のせいで何百着と売れて、お客様の中には一生分のドレス買っとくっていう方もいらしてねぇ。それがほとんどお直しだから、すごい行列になってるんですよ。」
結局、特別に2月までにはあげて頂けることになりましたが、なんだか、たくさん売れてよかったですね、とも言えないような寂しい気持ちでもありました。
麹町の新宿通りから1本内側に入った人通りの少ない道に面していて、しかも仕出し屋さんのビルの地下で、本当に目立たない立て看板を出しているだけだったので、
「ねぇ、めいみさん、もう少し目立つように看板出せば?この間紹介した友達が、行ったけどどこだか全然わからなかったと言ってましたよ。」とずっと以前に進言したことがあったのです。
「いえ、これでいいんですよ。よいお客様に恵まれてるし、変なひやかしにいっぱい来られても困るしね。」と。
女性としてかっこいい方で、とんかつと鰻が大好き!というめいみさん。(実は私も好みがいっしょ。。)3月には本当に閉店でお別れです。とてもとても名残惜しい限りです。
そしてもう一人は通いの今井クリーニングさん。
「コロナと年には勝てないから、これで引退することにしたよ。長いことありがとね。」と言って廃業。これまた寂しいことです。
今週の月曜日。大学の帰りに麹町駅に降りたところ、まだ夜8時だというのに、交差点角にあるインド料理の「アジャンタ」はもう真っ暗で閉まっています。
アジャンタと言えば、夜11時でも食べたくなったら行けるお店!で、いつでも麹町の交差点を明るく照らしている存在だったのが、非常事態宣言に従って8時閉店。いっきに夜の日テレ通りはさびしい雰囲気が漂うようになりました。
今はこういうことに耐えて生活しなければいけない日々。
春になれば。。。ワクチン接種が広まれば。。。
そう思って今は自分がやることを一生懸命やっていくことにいたしましょう。
楠原祥子
コメント ( 0 )
トラックバックは利用できません。
この記事へのコメントはありません。