ポゴレリチを聴くということ 楠原祥子
明日から10月。ワルシャワではショパン国際コンクールが10月3日から開催されます。
35年前の1980年、コンクール自体の存在が揺らぐほどの大変な事態に陥ったのでした。
イヴォ・ポゴレリチ・・・このピアニストの登場が巻き起こしたセンセーションはあまりに大きく、その後のショパンコンクールが霞んだほどでした。コンクールの伝統に鋭い刃を振り下ろし、新たなショパン演奏を提示したとも言えます。
冬の夜、リストの『ダンテを読んで』から始まったポゴレリチの演奏は、異様なものを聴いたという印象を前半はぬぐえなかった。私たちの前に繰り広げられたリストは、天空を衝くような巨大な黒い構築物かと見まごうものだった。バスの轟音は、不吉で、漆黒の闇ほども暗く、グロテスクに鳴り響いている。次の音型に形成された手を、上から鍵盤に向けて振り下ろして容赦なく圧力をかけるのだから、響きが美しかろうはずがない。それがピアノの車輪を伝ってホールの床を振動させ、うなりを持って足元から這い上ってくる。これでもかこれでもかと追い打ちをかけるように強打された音が、私の神経を否応なく撹乱する。
次のシューマンの幻想曲の2楽章の中間部に入った時のこと。ソプラノの歌が、親密に、直接私に歌いかけてくることに胸を突かれた。透けるヴェールを纏ったヴィーナスが、私だけのために歌ってくれている・・・そんな瞬間がポゴレリチの演奏におとずれたことに驚いたのである。意図しない音は一音たりとも出さない、というのがポリシーなのだから、即興的なものではないだろう。しかしそれも束の間、不意なスタカートによって歌が途切れて、もうこれまでの親密さを否定してしまう。
休憩をはさんで、ストラヴィンスキー作曲ペトルーシュカからの3楽章。ワイセンベルクのスタイリッシュで急速なペトルーシュカに傾倒した時期があった私は、冒頭から交響的な和音の連続に驚き、均衡のとれないリズムや、アクセントによって歪められたラインを聴いて、これはまず、私の中のこれまでのペトルーシュカの記憶を消去しようと思うに至った。
結局、ポゴレリチを聴くということはそういうことなのだ。既存の美の概念を一度壊して、まったく別の方法で再構築した楽曲を聴くということになる。
和声的に極端な強調がある部分は、動きが不格好なペトルーシュカがいる。半面、律動の正確さによって、バレエ・ルスの滑稽で計算された動きのペトルーシュカも演出している。
ポゴレリチは、楽譜から彼だけの方法で読み取る術を身につけている。
1980年ショパン国際コンクールのスキャンダルで世に出たのはもう35年前。そしてそのまま、ポゴレリチは、どんな潮流やどんな時代にもフィットすることはないピアニストであり続けている。
(2014年12月14日サントリーホールでのリサイタルを聴いて。 JPTA会報掲載)
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