ピアノの素晴らしさ

- Shoko Kusuhara Piano School -

右手と左手の美しいバランス

個性の美と調和の美。ヨーロッパに目を向けてみましょう。

たとえば、パリのあの美しい街並みは調和を重んじる伝統があってこそのアーバンデザインで、ショパンもその魅力に吸い寄せられた一人。でも調和を重んじながら、パリという個性は全世界でただ一つのもの。調和の美はそのまま個性となって創造の中に共存しているのですね。

ピアノは、右手と左手それぞれで、旋律=個性伴奏=調和を一体化して表現できる数少ない楽器です。右手=旋律だけでも曲として奏でることができますが、左手=伴奏もあることで、完成したものになります。

 「左手の伴奏は正確なテンポを保ち、右手はテンポを変えながら伸び伸びと弾きなさい。これは決して難しいことではなく、両手がちぐはぐになっても、互いに補い合うことで全体としてのまとまりが生じてくるのです。」

ショパンによる旋律と伴奏の“テンポルバート論”です。

旋律と伴奏はその存在を競って誇示するものではなく、互いに補い合うものである、という美学が示されています。

 音楽において、旋律・メロディは個性といえます。自由にのびのび歌いたいのです。メロディの美しさにハッと心が釘付けになるとき、至福のひとときを味わうものです。

一方、伴奏は調和といえます。ベースが土台として音楽を支え、リズムと拍で時間的な規則性を作り、和声のクッションで豊かな響きをもたらします。全体の調和をとりながらメロディの個性を引き立てる!気まぐれな歌姫ディーバを巧みにコントロールしながら、大いなる包容力で包みこむというところでしょうか。さてどちらが“うわて”なのでしょうね?

 旋律・メロディは常にスポットライトを浴びて圧倒的存在感が必要です。大切なのは単に音量の大小よりも‘フレージング’と‘エスプレッション’。ときとして旋律は、人の心に揺さぶりをかけ、癒しや愛や勇気を与える力をもつのです。まさに歌姫ディーバの魅せどころです。

 伴奏は大別すると“ベース”と“和声”に分けられます。伴奏の世界は実に多種多様、多士済々。

舞曲のようにベースと和声がはっきりと分かれるケース。一体となるケース。独自の旋律ラインをなすケース。いずれのケースも拍子とリズム、そして和声と和声進行を支配しています。

 もし、伴奏がリズムという軸を失ったなら・・・時間芸術である音楽はその芸術性を失うことになるのです。もし和声進行を失ったなら・・・音楽がさまよい行方不明になるでしょう。もし和声を失ったなら・・・旋律とバスは虚ろにこだまし合うだけです。

つまり伴奏は、音楽全体の調和と交響的な響きを生み出し、生き生きと前進する原動力となり、それらを包括して全体美を保つという、すべてを握る存在なのです。

 時間を支配しながらも“詩情”を拍にのせ、規則正しい呼吸に“ため息”がまじるのを許すことで、伴奏は旋律に歩み寄ります。一方、のびやかな感性でニュアンスを際立たせ、情感の密度を濃淡で色分けした旋律は、そこに節度をきかせることで伴奏に歩み寄るのです。